日和亭御案内


 平安遷都の少し前、延暦元年(782年)ごろ、現在日和亭のある場所に、「正法寺」というお寺の塔中の「東光寺」というお寺が建てられました。 鎌倉時代の後期になると、四条大納言隆親(たかちか)の三男である、権中納言隆良(たかなが)が、この山の麓に別荘を建て、「鷲尾」と号し、「淑阿弥」(しゅくあみ)と称されていました。
 御所の舞楽の演奏家だった鷲尾中納言は、歌を詠んだり、管弦の遊びなど優雅な時を友人方と過ごされていたと記録が残っています。 そして、隆良の子の孝嗣が、鷲尾を氏姓として鷲尾家の初代となりました。天保年間に、霊山のふもとにある翠紅館の場所を、鷲尾家の別荘とされたのが、鷲尾家十九代目の鷲尾隆聚(たかあつ)伯爵でした。
 隆聚は、幕末に勤皇派公卿として、戊辰戦争では大総督府参

謀などを務めて功をなし、維新後、五条県若松県知事、愛知県令、元老院議官などを勤められた、明治の元勲でした。彼は、東光寺(翠紅館)を買い受け、改築して、一時住居として住まわれました。
 それ以後しばらくは、別邸として、大切なお客様の接待用に利用されていたそうです。そして時は流れ、黒船の来襲により、国内に「攘夷」の嵐が吹き荒れた幕末、明治維新直前の文久三年に、勤皇派の方々が秘密の会合をする場所として、建物内の二つの部屋を提供されました。「翠紅館広間」と「送陽亭」が、その舞台です。 翠紅館広間は、志士たちの会合の場所となりました。 送陽亭には、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、井上馨らが集まり、会合を開きました。
 その後、ここを手放され、以後2人の経済人の所有を経て、

阪口家三代目当主、祐三郎がここを入手しました。
 日和亭を経営する阪口家一族はもともと、関東・武蔵地方の豪農でした。「大阪冬の陣」の際には徳川家康公が訪れ、あまりの門構えの大きさに感心し、乗馬のまま家の門をくぐり、馬の鞍を頂戴したといわれています。
 その後、江戸で「八百竹」の名で八百屋を開店。明治十年に、初代、阪口うしが「日和亭」を開業しました。三代目当主、祐三郎が事業を拡大しましたが、商売繁盛の勢いで相場をはったのが裏目に出てしまい、さらに太平洋戦争で全てを焼失してしまいました。
 裸一貫で出直し、昭和二十一年に日和亭を再開、開業いたしました。